「レイさん。『奇跡』というものを信じていますか?」
唐突に秋子がレイに尋ねる。
「……奇跡……ですか?」
「はい。奇跡です」
「…………信じています」
秋子様を見てますから。とレイは心の中で続ける。
レイの返答に秋子は嬉しそうに微笑む。
「それはとても素晴らしいことです」
「そうですか」
「『奇跡』とは『希望』です。望むべき未来への『可能性』です」
「なるほど」
「起こるから奇跡。とても素晴らしい言葉です。奇跡があると考えただけで人生は素晴らしいものになります」
「言いたい事は分かります」
「分かっていただけますか」
「はい」
ですが、とレイは続ける。
「手元を見てください」
秋子の微笑みがほんの僅かだが引きつる。
「『起こるから奇跡』。秋子様の言う通り素晴らしい言葉です。ですが、中々起こらないのも事実です」
「……そうですね」
「残念ながら今日中には書類の山は片付きません」
机を埋め尽くす書類。
もう何時間もやっているのにまるで減ったような気がしない。
むしろ増えているような気がして気分が重くなってくる。
もしかしたら久瀬が≪転移≫を遣ってこっそり増やしているのではないかという如何にも有り得そうな考えさえ浮かぶ。
レイは心の中で今度久瀬に会った時、絶対斬ってやるという物騒な決意を固めていたりしていた。
残念ながら書類が増えている訳ではないので久瀬は濡れ衣でその決意はただの八つ当たりでしかない訳だが。
とにかくそんな会話をしながらも、そんな気分になりながらも、二人の手は休むことなく動き続ける。
レイの冷たい言葉にもめげず――いや、少しだけめげながらも秋子は『希望』の言葉を紡ぐ。
「…………私、奇跡を起こすのは得意なんですよ?」
「疑問系になってます」
「……ふぁ、ふぁい――――」
「名雪様の真似をしても駄目です」
「……レイさん。ひどいです」
「………………お願いですから嘘泣きは止めてください……」
どんなに冷たく接しても結局は秋子に勝てないレイ。
状況はまったく変わっていないのにそれでも二人の心は少しだけ軽くなった。
休憩も無しに何時間もやっている二人にとってはこれがある意味休憩のようなもの。
心が軽くなったと言ったがレイは逆にげんなりした部分もあったりするが。
それでもまぁ気分転換になっているのだろう。
レイは気を引き締めて、秋子は気が引き締まっているのかいないのかよく分からない笑顔で、二人は少し緩んだ手の動きを再び早める。
部屋に無言が広がり、ペンの走る音だけが辺りを満たす。
数分後、焦ったわけでもないのに突然文字が大きく歪む。
レイは久しぶりに顔をあげ、秋子を見ると彼女もレイを見ていて二人は立ち上がる。
部屋の外へ出て、早足で歩きながらレイが口を開く。
「奇跡が更に遠のきましたね」
「苦労した後にこそ奇跡は起こるものです」
「どれほど苦労しても起きない奇跡はあります」
「『起きないから奇跡』ですか? 寂しい言葉ですね」
「しかし事実です」
「否定していいですか?」
「どうぞ」
「なら否定します。けど、その前に」
秋子から微笑みが消える。
「別の奇跡を起こしましょう」
代わりに浮かぶは『蒼き絶対者』としての顔。
秋子は地面に叩きつけられる寸前、風を身に纏い落下の勢いを殺し、ゆっくりと降り立つ。
次いで落ちてくるレイを受け止める為、風を辺りに広げる。
レイは生粋の剣士で魔術を遣えない為、自らでは落下の衝撃を和らげることは出来ず、秋子に任せている。
もし、秋子が受け止めるのを失敗したら――――という不安はレイにはまったく無い。
だから地上から二十メートル以上の高さを誇る指令室から飛び降りる事もすんなりと出来る。
ぶわぁっとレイを受け止めた空気が拡散し、彼女はゆっくり大地に足を降ろす。
秋子が移動を促し、レイはすぐに頷く。
四方に別れた大通り。
彼女達が向かうのは北。
「刻印の魔物とは予想外の相手が出て来ましたね」
本来なら秋子はこの雪華都のトップとして指令室で指揮を取るべきなのだが、彼女はSSランク。
この街最強で大陸でも有数のハンターであり、ただ指揮を行うよりも前線で戦うほうが遥かにこの街の為となる。
その秋子の側近を勤めるレイも只者なわけがなく、当然の如く後に続いた。
「襲撃も予想より早いですし、やはりあれの情報を信用するのは間違いだったのでは?」
「『あれ』じゃなくて『久瀬さん』ですよ」
「善処します」
「頑張ってください。久瀬さんの情報は信用出来ます。これはおそらく久瀬さんにも予想外の事だったでしょう」
「予想外、ですか」
全てお見通しだ。と言わんばかりの冷笑がレイの頭に浮かび、不愉快になってすぐに振り払う。
「予想出来なかった事の責任でも取っているつもりですかね」
「責任があろうとなかろうと関係なく戦ってくれますよ。久瀬さんは」
二人が飛び降りた指令室で受けた報告。
その内容の一部に二体の刻印の魔物が≪転移≫されてきたというものがあった。
一刻も早く増援が必要なその報告が二人を指令室から飛び降ろさせた最大の理由なのだが、それはさておき。
北と東の大通りにて刻印の魔物が≪転移≫されたと云う報告。
同時に東には久瀬もいるという報告が入っている。
その久瀬は防戦一方と云う報告だったのにも関わらず、秋子とレイの脚が進む先は北。
「心配しなくても久瀬さんはお強いですから大丈夫ですよ」
「おそらくこの街の九割以上が心配していません」
「みなさん久瀬さんを信頼しているんですね」
「…………違います」
会話をしながらも二人の脚はかなりのスピードで動く。
大通りだとはいえまだ避難出来ていない住民が大勢いて、混雑しているにも関わらずそのスピードは緩む事がない。
風が通り抜けるような一瞬でも秋子の特徴的な青髪のおさげは住民達の目に留まる。
『水瀬秋子』が来てくれたと云うその事実が住民達に大きな安堵を与える。
そしてその逃げまとう住民達の先には魔物達がいて、警備兵達が応戦している。
「退けっ!!」
警備兵達に向かってレイが叫び、間髪入れずに秋子が、
「――――≪水弾≫」
唄うかのように軽やかに魔術を放つ。
数十の水の塊が秋子の周りに生まれ、魔物に向かって突き進む。
本来一直線にしか進まない≪水弾≫はまるで意思を持っているかのように住民や警備兵を避け、魔物だけを貫く。
それでも残る僅かな魔物は一瞬で間合いを詰めたレイが刀で斬り捨てる。
現れて数秒でこの辺りにいた魔物を一掃し、それを見ていた住民が、警備兵が、歓声を上げる。
警備兵の歓声にレイは眼を吊り上げる。
「貴様ら、この程度にいつまでも手間取るな! 数は勝っていただろうが!」
レイの叱責に怯む警備兵をフォローするのは秋子。
秋子がレイを見遣ると、レイは口を閉ざし後ろに引っ込む。
「あなた方のおかげで住民達は怪我なく避難出来ています。ありがとうございます」
深々とお礼を言われると逆にうろたえるのは警備兵達。
そんな事はありません。当然の事です。頑張りました。結婚してください。顔を上げてください。
などと慌ててる警備兵達。
とりあえず若干一名ほどは後でぼこられると思われる。その後きっとレイにも斬られると思われる。
それはさておき、警備兵に簡単な指示をして秋子とレイはその場を離れる。
更に北へ向かう。
道の先に避難する住民達はいるが魔物の姿は一応は見えない。
それでも警戒はしつつ、足を早めるとピピピピッという音がレイから響いた。
詳しく言えば彼女からではなく彼女の腰にかけた四角い黒い箱から響いた。
手の平サイズのその箱から一本の線が伸び、線の先はイヤホンとなっている。
魔道具『ディスレシーバー』
遠く離れた場所にいる者とも会話をすることが出来る通信の魔道具。
相手も同様の魔道具を持っていなければいけないという多少の不便さはあるがそれを補って余りあるほど重畳されている代物だ。
レイはディスレシーバーを手に取りイヤホンを耳に当て、本体の黒い箱についているボタンの一つを押す。
「こちら、レイ・サルラ。どうした?」
『レイ様。C−3・D−3地点でも刻印の魔物が現れました』
「更に二箇所にか……。状況は?」
『C−3地点ではカケェ・ヒーケ二小隊が交戦中。D−3ではアス小隊が交戦中。
共に付近の警備兵に増援を呼び掛けています』
「了解した。我々も急ぐ」
レイは通信を切り、秋子に報告する。
「西と……南も……ですか」
C−3は南の大通りの一角。
D−3は西の大通りの一角。
C−3地点は指令室で報告されたトロルの集団が現れた空木公園と近い。
そしてその公園には名雪達がいる。
名雪達が刻印の魔物と接触する可能性は高い。
事実、この後接触する事になるのだが、それはまだ起こっていない出来事。
「どうしますか?」
レイは質問する。
名雪様を助けに行かれますか?
言外にそんな含みを込めて。
それが分かった為、秋子は少しだけ微笑み、首を横に振る。
「名雪なら大丈夫です」
みなさんが――祐一さんがついていてくれますから。とはっきり言う。
あまりにもはっきりとした口調で逆に不安が読み取れる。
本当は……今すぐにでも名雪様の元に行きたいのでしょうね。
レイはそう思う。
そう思っても彼女は秋子に掛ける言葉がない。
そんな器用な性格ではないし、よく回る口も持ち合わせていない。
だから、あえて励ましの言葉は遣わない。
「D−3地点はどうしましょうか。二手に別れますか?」
それにも秋子は首を振る。
「先に北を片付けてから向かいましょう。こちらはもうすぐそこですから」
「分かりました」
二人の視線は他の何処でもなく、真っ直ぐ前へ。
レイは刀を持つ右手に力を込める。
秋子の表情からも微笑みが消える。
刻印の魔物はもうすぐそこにいる。
「ムリ! 絶対ムリ!! 俺ら死ぬってっ!!」
「………………」
「否定しろよ! 崎森ーーーー!」
「…………うるさい」
叫びながら走る斉藤とほぼ無言で走る崎森。
今、彼らはオーガの群れ六体に追われ逃げまわっていた。
西の大通りでの出来事。
魔物が≪転移≫され、初めは戦おうとしたがあまりの数に戦略的撤退を選んだ二人。
だが、避難所へ向かおうとしていた途中でオーガの群れと出くわし、慌てて回れ右。
オーガから全力で逃げながらも別の避難所へと向かっていた。
「やっぱ裏通り通るべきだったか!? ちくしょー!」
「裏通りだと通路が狭い。建物が崩れて通れない可能性が高いし、魔物と出くわした時逃げ場がない」
「的確な説明どうもっ! つうかなんでお前そんな冷静!?」
「………………」
無言の崎森から返答を諦め(そもそも最初から期待していない)、斉藤は首だけで後ろを振り返る。
オーガ達との距離は大きく離れていた。
彼らは巨体の割りに素早いが、逃げに徹すれば何とか追いつかれずにすむだろう。
だが、彼らが手にした武器を投げつけられると背後からなだけに避けるのが難しい。
それでも怪我もなくここまで大きく離せたのはオーガ達が斉藤達を追うよりも街の破壊に力を入れているからだ。
「……よっし! このまま逃げ切るぞ!」
「ハンターの言葉とは思えんな」
「……うっ。し、しゃーねぇだろ!? 俺らじゃ一、二体が限度だって……つうか崎森だって逃げてるだろうが!」
「………………」
「だ、黙るなよ。あー……悪かった」
「……かまわん。事実だ」
「と、とにかくさっさと避難しようぜ! そうすりゃ月宮や舘原達とも会えるかもしれないしな」
「………………」
相変わらずの無言で崎森は頷き、二人は走る。
走っていくと街の破壊が目に付いた。
街の何処を見ても多少の破壊はあるがこの先は特に酷い。
それも進めば進むほど規模が大きくなっている。
オマケに現在進行形で大規模な破壊が行われているであろう爆発音が道の奥から途切れなく届いてくる。
崎森と斉藤は当然、足を止める。
「……こっちは危険だ」
「だな。だけど、どうする? 裏通りは駄目なんだろ?」
「少し戻った所で道が別れていた。多少遠回りになるがそっちを通ろう」
「…………戻るのか。嫌だなぁ。オーガ達まだ追いついてきてないと良いけど」
項垂れながら斉藤は先に道を戻っている崎森の後を追う。
斉藤の願いが通じたのか分かれ道まではオーガ達ともその他の魔物とも出会わなかった。
だが、分かれ道から新たに進んだ道路の先で出会ってしまう。
一体のオーガ。
先ほどのオーガの群れから逸れたのかそれともまた別物なのか、二人には知る由は無かったし、どうでも良い事でもあった。
距離はまだあったがそのオーガが自分達に目を付けたのが崎森と斉藤、両方が気付く。
「どうする? 一体だし倒しとくか?」
群れに対しては即座に逃げ出した斉藤が一体だといきなり強気になる。
「気を逸らしてその隙に逃げる。戦うと仲間を呼ばれる可能性が高い」
「……うげっ。そりゃダメだ。逃げよう」
即座に賛成する斉藤。
彼は本当にハンターなのだろうか。
足を緩め、詠唱を始める斉藤。崎森は万が一の為にナイフを手にする。
「≪火炎球≫!」
斉藤の手から炎の筋が伸び、それがオーガに触れ、爆発する。
「よっし! 直撃!」
「………………直撃させてどうする」
「は?」
「あくまで俺達から目を逸らされるのが目的だ。直撃などさせたら――――」
崎森が爆発によって出来た煙の奥を見つめる。
つられて斉藤も同じように見る。
煙が薄れ、中から現れたオーガは、
「――――確実に俺達を狙ってくる」
二人を殺すべき相手と判断した。
「――――おらぁぁっ!」
斉藤の剣がオーガの腕を斬り裂く。
続く崎森は無言でナイフを急所に突き刺す。
二人の戦法は攻撃しては即座に離れるというヒット&アウェイ。
オーガの右手に持つ斧に気をつけ、少しずつ傷を追わせていく。
斉藤は時折魔術を織り交ぜるが大した効果はない。彼にとってメインは剣で魔術は補助にすぎないのだ。
先ほどの≪火炎球≫にしても、香里が創り出すものの半分ほどの威力しかない。
だから、いつもは後援にいるはずのあゆ・樹梨の魔術師コンビに魔術は任せている。
全体の流れを見極め、的確な補助と言う役割をDランクの二人に任せるのはかなり不安ではあるが、その辺りは崎森の指示で何とかなっていた。
その二人が今は居ない為、オーガから離れた時の対応は斉藤一人に任せられ、彼の負担は大きくなっていた。
逆に常に彼女達を気にしなくてはならなかった崎森の負担は軽くなり、戦闘に集中が出来た。
突如、オーガが咆えた。
気合を入れるようなものではなく、遠くに伝える為のような咆哮。
「な、なんだ!?」
「……っ! おそらく仲間を呼んだ」
「な!? ど、どうする!?」
「慌てるな」
「慌てるなっつっても! どうすんだ!? 崎森!」
「とりあえず黙れ。うるさい」
「だからなんでお前そんな冷静なんだ!?」
ハンターとして冷静なのは必要な能力なのだが。
斉藤もいつものメンバーならもう少し冷静なのだが、それは女の前で無様に慌てられるか! という意地と云うか格好つけているだけであったり。
「援護を任せる」
斉藤の動揺も質問も無視し、崎森はオーガに一直線に突っ込む。いつの間にか片手に三本ずつ投げナイフを持っている。
崎森が行動したからには動揺している場合ではなく、斉藤は急いで魔術を紡ぐ。
崎森はまずは左の三本のナイフを投げる。
それは斧によってあっさり防がれるが、次に右の三本のナイフを投げる。今度はオーガの足元を狙って。
三本の内一本が足の指に刺さる。
足の指というのはさほど筋肉に覆われてなく、だが神経は集中しているため、痛みだけは十分に与えられる。
オーガは地団駄を踏むように地面を踏み荒らしながら咆える。
それを見据えながら崎森は右手に新たなナイフ、左手に小さな黄色の魔石を手にする。
その二つを奇術の様に一瞬で取り出し、痛みによって凶暴化しているオーガの懐に潜り込む。
あまりに近い為、オーガは右手の斧は使えず、左腕で殴り、脚で蹴るなどの打撃で攻撃してくる。
斧でない為、真っ二つにされたりはしないが、それでも一発食らえば致命傷。
その攻撃を避け、或いは掠めさせ、とにかく直撃だけはしないように細かく動き回る。
頬や腕、その他の身体のいたる所に傷が増えていく。
何十の掠り傷をあっという間につくるが、それでも動きが鈍らないよう脚の傷だけはつくらせない。
狙うは一瞬。
オーガの注意が崎森から離れるその時。
その隙を作るのは斉藤の役目。
詠唱を唱え終え、後は発動させるだけの魔術はまだ遣わない。
離れたまま攻撃する方法は魔術だけではない。
彼の右手にある剣。
それをオーガに向かって投げつける。
別に当てる必要はない。
無理に当てようとして崎森に被害が出れば冗談ではすまないし、そもそもこの攻撃の意味は気を逸らす事。
オーガの注意を剣に向ける事。
出来る一瞬の隙。
その一瞬を待ち望んだ崎森が見逃すはずはない。
オーガの膝や胴体を使ってその頭上へ翔け上がる。
一瞬遅れれば殺されてしまうその恐怖を押し込め、崎森は右手のナイフに力を込める。
狙うは眼球。
そして、その奥の脳まで達せさせようと力の全てをナイフの先端に集中させる。
「――――……!!」
崎森の無言の叫び。
深々と刺さったナイフ。
だが、未だ絶命しないオーガ。
オーガの身体を蹴り、崎森は宙へと跳ぶ。
その彼にオーガは痛みを返す為、斧を狙い定める。
空中にいる彼にオーガの斧を避ける術はない。
「≪火炎球≫!」
しかし、オーガの斧が崎森に届くより先に斉藤の魔術が炸裂する。
そして、崎森の左手に握り締められた黄色の魔石。
それがオーガに投げつけられ、オーガに触れた途端、電撃へと変化する。
それほど大きな威力ではないがナイフを伝い、直接脳へと届けられる電撃に耐えられるはずもなく、オーガは絶命する。
ゆっくりと倒れるオーガを見て、斉藤は大きく息を吐いた。
「……た、倒したぁ…………」
「呆けている場合じゃない。逃げるぞ」
「逃げって……げっ! もうすぐそこまで来てやがる!」
二人が走ってきた道を振り返れば、道路の先にオーガが五体ほど向かってきているのが見える。
五体という事は今まで彼らが戦っていたオーガは群れから逸れた者だったのだろう。
そんな推測は今はどうでも良く、斉藤は急ぎ自分の剣を拾い、崎森の後を追ってその場を去ろうとしたが、その崎森がすぐに立ち止まる。
「どうしたんだよ? 早く逃げっぞ!」
「……聞こえないか?」
「は? なにが?」
「破壊音」
「そんなもん街のいたるとこから聞こえるだろ」
「……すぐ近くから、だ」
突如、視界が石で埋まった。
ほんの数メートル先の道路脇に並ぶ幾つもの建物が轟音をたてて吹き飛んだ。
五メートル以上の高さがあった石造りの店が並んだ大通りの一角。
それが跡形もなく、道路を塞ぐ瓦礫になった。
斉藤が何か呟くが轟音に掻き消され、崎森には届かない。
届いたとしてもそれはきっと意味のない驚きの言葉。
雪と埃が舞い、視界が奪われる。
もし、オーガから逃げようと走り出していたら生き埋めになっていた。
運が良かったとしか言い様がない。
だが、ただ運が良いとは言えない。
道路は瓦礫に覆われ、これ以上進めそうにない。
彼らの後ろにはオーガが五体。
オーガ達も二人と同様に建物の破壊と轟音に驚き、呆然としている。
それでも目の前を通れば正気に戻るに違いなく、こちらもそう簡単に進めそうにない。
埃と雪がようやく落ち着いてきて、斉藤はゴロゴロと瓦礫から落ちてくる石に目がいった。
石と共に落ちてきた『それ』に斉藤は悲鳴を上げる。
「ささささっさ崎森!? あたっあたっ頭っ!?」
「………………!」
人間の頭部。
それが、それだけが転がってきた。
当然胴体はついておらず、確実に死んでいる。
その頭部は目を極限まで見開き、口も同様に開ききって、目を逸らしたくなるほどの苦悶の表情。
ガラッと再び石が瓦礫から落ち、二人はビクッと反応する。
今度は頭部が落ちてくることはなく、斉藤が脅かしやがって。と呟く。
そしたまたガラッと云う音が届く。
今度は斉藤だけがビクッと反応し、瓦礫の山を見上げる。
だが、音がしたのはそちらの方ではなく、瓦礫が店であった時その店が立っていた場所からで崎森はそちらに視線を向ける。
「…………誰だ?」
警戒しながら、音の先へと訊く。
ガラガラッと瓦礫の端を崩し、転がるように何かが現れた。
現れたのは二人の人間。
瓦礫に躓いたのか重なり合うように転がり、倒れた。
倒れた二人の姿から警備兵である事が分かり、ホッと息をつくが、立ち上がる彼ら――正確にはその内の一人を――見て、再び息をのむ。
甲冑や剣などの装備が壊れているのはまだ良い、だが、肩から先――左腕が丸々なくなっていたのには流石に目を逸らしてしまった。
「君達……ハンターか! 手伝ってくれないか!?」
両腕が健在の警備兵が崎森と斉藤の姿を見て言う。
だが、それをすぐに否定する声が左腕のない警備兵から発せられる。
「……馬鹿……者…………まだ……学生だろう……がっ……!」
「しかし隊長!」
「君達は……はやく…………逃げ――――」
隊長と呼ばれた警備兵が崎森達への言葉を言い終える前に二人の警備兵は姿を消す。
再度、破壊音。
瓦礫がまるで爆発したかのように弾け、それに巻き込まれ――否、それは警備兵を狙ったもので、彼らは道路の端まで吹き飛ばされていた。
それが一瞬すぎて崎森と斉藤の目には消えてように感じられた。
慌てて崎森と斉藤は警備兵の元に駆け寄るがもう二人に息は無かった。
死んだ。
殺された。
殺したのは――――誰だ?
次に殺されるのは――――誰だ?
崎森と斉藤の二人にぞくり、と悪寒が走る。
いる。
どこに?
後ろに。
誰が?
警備兵を殺した者が。
建物を吹き飛ばした者が。
いる。
いる!
いる!!
殺される!!
二人は同時に振り向く。
そこに居たのは――――異形の化け物。
頭は牛で身体はほぼ人間と云う特徴としてはミノタウロス。
だが、右手に持つはずの斧は右手と同化し、右腕そのものが巨大な斧と化している。
左の腕も人間の腕と比べるとあまりにも膨れ上がっていて、何処か歪だ。
頭から生やした二本の角も巨大で、色はどす黒く嫌悪感すら感じられる。
ギラギラと真紅に血走った眼は破壊を求めている。
胸にあるのは六望の魔方陣と魔術式。
刻印。
刻印の魔物。
崎森と斉藤には目の前の化け物が刻印の魔物とは分からない。
だが、分かる事もある。
この化け物には勝てない。
それが理解出来る。
もっと言えば。
今から俺達は殺される。
そこまで思考が行き付いている。
対峙しただけで分かる圧倒的な差。
刻印の魔物は動かない。
崎森と斉藤は動けない。
刻印の魔物より先に動かなければ、思考しなければ二人は死ぬ。殺される。
それは決定された事実。
「……さいっ……とう…………」
崎森が力の全てを振り絞り声を出す。
擦れた声が何とか斉藤まで届く。
斉藤は溜息の様な呻き声の様な声で返事をする。
「動ける……か……?」
「…………あ、あぁ」
斉藤は今度は何とか言葉になった返事をしたが本当に体が動くかどうか分からない。
刻印の魔物がドスンッと大地を揺らし、ゆっくり近づいてきた。何となく笑っているように感じられる。
二人はビクッと反応し、急いで身体が動くかを確かめる。
驚く事に身体が動かせる。
「にげっ……逃げるぞ!」
珍しく崎森が叫ぶ。
斉藤が瓦礫の山とは逆の道路を振り返る。
オーガ達はいつの間にかいない。
刻印の魔物が現れた時に逃げていたのを二人は気付いていなかった。
それどころかオーガが居た事すら忘却してしまっていた。
だが、これで挟み撃ちをされる事もなく逃げられる。
駆けだした所で崎森は多少の冷静さを取り戻す。
このままでは刻印の魔物から逃げれるはずがない。
まだ逃げてもいないのにそれが理解でき、逃げ切る可能性を上げる為に震える手で魔石を取り出し、空中に放り投げる。
視界を埋め尽くす閃光。
崎森と斉藤には背後で起こった光だから彼らは無事だが、刻印の魔物には真正面。
殺傷力はなく一瞬の光だが、数秒視界を潰す事が出来る。
この隙に一歩でも遠くに逃げなければならない。
何処まで逃げられる?
果たして逃げ切れるのか?
そんな疑問を押し込めて、崎森は魔石を放る。
閃光。
爆発。
凍結。
電撃。
逃げる二人の背後で起こる無差別の魔石の開放。
どの魔石を投げているかなんて確かめている余裕はない。
逃げる。
逃げる!
逃げる!!
果たしてこの脚は本当に動いているのか。
刻印の魔物から離れている気が崎森にはまるでしない。
足が縺れ――――転ぶ。
立ち上がろうとしても何故か立ち上がれない。
見れば斉藤も同様に転んでいる。
足が縺れたのではなく地面が揺れたせいで転んだのだ。と遅れて気付く。
なら、地面を揺らしたのは誰だ?
考えるまでもない。
振り向くまでもない。
すぐ後ろにいる――――そいつだ!
横へ跳べ!
本能がそう叫び、本能のまま行動する。
揺れは収まっていた。そう思ったらまた揺れる。
飛礫がどこからか飛んでくる。
体勢を整え、横を振り向いた時、ぞっとする光景が崎森の視界に映る。
先ほどまで崎森が倒れていた場所に刻印の魔物の斧が付き立てられていた。
地面を深々とえぐり、食らっていれば一発で致命傷だ。
飛礫の発信源もここである事は間違いない。
「崎森! 大丈夫か!?」
斉藤が叫ぶ。
崎森は返事をせず、代わりに刻印の魔物が斉藤の方を向く。
しまった。と斉藤は表情を歪ませる。
「か……≪火炎球≫!」
斉藤は詠唱もなく、魔術を放つ。
無詠唱のため元々低い威力が更に低くなり、刻印の魔物は直撃したにも関わらず火傷一つしていない。
その攻撃で刻印の魔物は目標を崎森から斉藤に変え、彼に近づいていく。
「くっ……来るなっ!」
斉藤は叫び、逃げようとするが逃げれない。
身体が硬直して動かない。
逆に崎森は目標から外れたおかげで、多少冷静さが戻る。
薄情な話だが安堵してしまった。
このまま斉藤を生贄にして、一人で逃げれば或いは逃げれたのかもしれない。
崎森一人は逃げ切れたのかもしれない。
先程の斉藤と同じように。
刻印の魔物が崎森に眼を向けていた時に、彼が斧を付きたてられた時に、一人逃げていれば斉藤は逃げれたかもしれない。
だが、斉藤はそうしなかった。
崎森もそうしなかった。
崎森は震えを押さえ、右手に三本のナイフを取り出す。
ナイフを投げようとした時、彼の思考に疑問が走る。
刻印の魔物の周囲を漂う光は何なのか。
二人の前に姿を現した時にはなかった光。
触れれば消えてしまいそうな儚い光。
目の前の化け物が創り出した光のなのか。
まるで幽鬼の炎の様に見え、とてつもなく気味が悪い。
そんな気持ちの悪さを堪え、崎森は投げナイフを三本同時に投げつける。
刻印の魔物は斧と化した右腕を横に振り、ナイフを弾く。
弾くだけでは済まず、生まれた突風が崎森を襲う。
踏ん張るがそれでも吹き飛ばされ、壁へ叩きつけられてしまう。
一瞬、息が止まる。
だが、まだ生きている。身体は動く。
よろける身体に活を入れ、道路の端ギリギリを走りながら斉藤に向かって叫ぶ。
ナイフで気を逸らすのが失敗したからには、斉藤自身に何とかしてもらわなければいけなかった。
斉藤は崎森が吹き飛ばされた所で何とか硬直からとける事が出来た。
だが、頭は真っ白でどうすれば良いのか分からず、結局は硬直と同じ状況。
「斉藤! ≪灯光≫を遣え!」
道路の端を走る崎森の叫びに思考がようやく働く。
≪灯光≫は初級の魔術。無詠唱で十分発動出来る。
「≪灯光≫!」
一瞬の激しい光。
眼晦ましには十分効果がある。
ある、はずなのに。
崎森の魔石の閃光で慣れてしまったのか刻印の魔物は淀みなく動く。
≪灯光≫を放った直後に背を向け、逃げ出した斉藤の背中が斧でバッサリ切り裂かれてしまう。
「がっはぁ……!!」
それでも、それでもまだ胴体が繋がっているのは≪灯光≫に多少の効果があったおかげだ。
まだ生きている。身体は――――動かない。
刻印の魔物が斧を振り上げ、下ろせば斉藤の命は消え失せる。
だから、下りるより先に崎森が突っ込む。
右手にナイフを持って、突き進む。
考えは何もなく、ただ突き進む。
恐怖に駆られながら、それでも突き進む。
「――――ぉぉぉ!」
叫びを上げながら刻印の魔物を斬り裂く。
切り裂かれた腹部から血が溢れるが瞬時に再生される。
「な……!?」
刻印の魔物の振り上げられた斧は斉藤から崎森に目標が変わり、振り下ろされる。
崎森は身体を捻り、ギリギリ避ける。身体の真横に巨大な斧が有り、正に間一髪。
だが、刻印の魔物の攻撃はそこで終わらなかった。
地面に突き刺さった斧を横に――崎森に向かって動かし、今度は避ける間は無かった。
斧の刃ではなく腹であった為、即死ではなかったがそれでもかなりのダメージ。
叩き飛ばされ、壁にも叩きつけられた為、身体がもう動かせなかった。
意識は朦朧とし、最早この後の展開を傍観する事しか出来なかった。
刻印の魔物は崎森は後回しにして、先に眼下にいる斉藤を殺すことに決めた。
右手の斧でバッサリと殺そうか。
だが、それはさっき警備兵達にやった事だと考え、違う方法にすることにした。
左手で斉藤を握り締め、徐々に徐々に力を込めていく。
握りつぶして殺してしまおう。と邪悪な笑みを浮かべる。
「……がっ……ぁっ…………」
斉藤の口が大きく開き、そこから呻き声がもれる。
ミシミシッと身体の軋みが辺りに響く。
ゴキリッとどこかの骨が折れた。
斉藤の口から呻き声だけでなく真っ赤な血ももれてきた。
刻印の魔物が咆える。
歓喜の咆哮。
斉藤の苦悶が愉しくて仕方がないと云う雄叫びだ。
またどこかの骨が折れる。
斉藤にはもう何かを思考する事すら出来ない。
眼は見開いているのに視界は真っ暗で。
このまま死ぬのだと理解した。
殺されるのだと理解した。
助けてくれとすら願わず。
死にたくないとも思わず。
願うのは。
思うのは。
――――早く殺してくれ。
――――早く開放してくれ。
最悪の切望だった。
だが、彼に訪れるのは死ではなかった。
突然の浮遊感。
そして身体に奔る衝撃。
顔に何かの液体が振りかかる。
彼の視界に黒以外の色が戻ってくる。
初めに戻ったのは赤。
真紅の赤。
血のような、ではなく、正に血の赤。
顔に降りかかっていたのは真っ赤な血。
斉藤は自分自身の血かと思ったがすぐに違うと気付く。
左腕を失った刻印の魔物の血だ。
そこでようやく自分が地面に横たわっているのに気付く。
身体は刻印の魔物の左手に握り締められたままだった。
刻印の魔物は切り裂かれたその断面から留まる事なく血が溢れている。
だが、斉藤が見た直後、すぐにその腕は再生され、血も同時に止まる。
次に戻った色は栗色。
視界いっぱいにその色が広がる。
何かが聞こえるがよく分からない。
ただ、暖かさが身体に広がる。
「もう大丈夫です」
今度は聞こえた。
「お友達の方を治してきますね」
栗色が遠ざかる。
黒が目に付いた。
今まで視界に広がっていた絶望の色じゃない。
同じ色なのに違う。
輝くような黒。
黒色が斉藤を見る。
「………………」
無言。
だけど、崎森を知る斉藤にはその無言に安堵が交じっているのが分かる。
斉藤は理解した。
栗色が誰なのか。
黒色が誰なのか。
理解したから安心して、意識を手放した。
栗色の彼女は――――倉田佐祐理。
黒色の彼女は――――神兎学園最強――――川澄舞。
二人を運んだ淡い光が静かに掻き消えた。
魔術・技・道具解説
『ディスレシーバー』………通信の魔道具。遠く離れた場所にいる者が同様の魔道具を持っていれば会話が出来る。
ただし、通信範囲は街の端から端程度。
近距離でしか使用出来ない。
街から街への遠距離は更に大型の魔道具が必要となる。
『灯光』………………………光の初級魔術。激しい光を一瞬だけ出したり、小さな光を長時間出したりと調整が可能。
<hr>
〜あとがき〜
動き出す最強達。
どうも。海月です。
今回は出てくるの久しぶりだな、お前ら。な話です。
秋子さんとレイはオマケみたいな感じで十八話に出てきましたがもう一方は……。
とにかくまずは秋子さんとレイです。
そのオマケの続きから始まってます。
外に飛び出すまでの状況(指令室での報告など)はばっさりカット。
途中まで書いたけど面白味がなかったので自主規制。だからちょっと彼女たちの方は短め。
と云うか次の野郎達がなげぇ……脇役のくせに……。
その脇役どもの崎森・斉藤とS・Sコンビですが(勿論ランクじゃなくイニシャルです)。
斉藤はヘタレだなーと思いました。崎森って存在を忘れられてないかなーって思いました。
キミらもっと戦いに意欲持てよ。だけど弱っちぃから多分死ぬけど。助かってよかったね(棒読み
そんなヘタレな脇役はどうでも良いとして(酷い)やっと出てきました! 川澄舞! 倉田佐祐理!
街の外に魔物討伐とか行ってるから出てくるのが遅くなるんですよ。自分のせいですね、ごめんなさい。
次はこの二人の戦いがメインになると思います。
それでは次回にて。
前回から間をおかず二十一話を頂きました。
私がメールに気づいていれば約1週間ほど早く公開できていたんですが……
すいません。
で、今回のお話、緊迫感がすごいです。
斉藤、崎森二人とも生きていてよかったです。
そして救いの女神登場。
萌える燃える展開です!
この続きも知りたいけど祐一達も気になる〜
感想などは作者さんの元気の源です。続きが早く読みたい人は掲示板へ!
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